空が出てくる短歌を、有名な短歌から、あまり知られていないかもしれない短歌までをピックアップしてみました。
授業で短歌を作らねばならない中学生や高校生の皆さんにも参考になるのではないかと思います。
それでは、どうぞ。
空が出てくる短歌7首
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ/若山牧水
有名な一首ですね。
学校で習ったという方も多いのではないでしょうか。
広い海と空があり、その水平線にぽつんと白い白鳥がいる風景が浮かびます。
広い海と空の青の中に白がぽつんとある映像。
その白鳥に対して、青に染まらず白のままで哀しくないのだろうか?と尋ねています。
もしかしたら自分自身を白鳥に重ねあわせたのかもしれません。
海や空の青が何かの派閥かもしれません。世の中の大多数が正とするものかもしれません。
染まりそうになっている自分を励ますために詠んだのかもしれません。
しろがねの洗眼蛇口を全開にして夏の空あらふ少年/光森裕樹
めちゃくちゃ好きな一首です。
洗眼蛇口って今はもうないんですよね。
プールのあとに目を洗うための、二股で上に向かって水が出る蛇口があったんですよね。
全開にしたらすごく高くまで水が上がって、子どもたちはそれを面白がってやる。
夏、暑い中でのプールで、無邪気にふざけ合う風景が思い出されて、すごく好きなんです。
不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心/石川啄木
こちらも有名ですね。
私は学校で習ったことをよく覚えています。
尾崎豊のことが頭に浮かびました。
おそらく『十五の夜』が「十五の心」と結びついたのだと思います。
確か学校をサボって草に寝転びにきた、というエピソードを聞いた覚えがあります。
窮屈な学校生活を抜け出して、草に寝転び、空を見上げて、その十五歳の心が空に吸われたようだ、というイメージ。
それもなんとなく現代社会に対しての反抗心を歌った尾崎豊と重なります。
どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である/奥村晃作
そのまんまを詠う「ただごと歌」の家元にして名人・奥村晃作氏は、空をこう詠みました。
空を見上げてみたのでしょうか。
ふと「どこまで(どこから)が空なんだろう」と疑問に思い、目線を下げていく。まだ空、空、空、空、あ、地上。
「なあんだ地上スレスレまで空じゃないか。」
そのまんまです。
厳密に空をどう定義するのかは知りませんが、ただ空をみてそう思ったのは紛れもない事実なのです。
昼日なか暗き室つくり星空を撮りし写真の現像はじむ/浜田康敬
写真の現像は暗い部屋で行います。
昼のまだ明るいうちにわざわざ暗い部屋をつくる。そこで現像しているのは暗い星空の写真。
という明るさと、わざわざ作る暗さと、自然のなかのリアルな暗さと、それが写真であるという人工的な暗さが詰め込まれた一首だなと思います。
バス停の脇に鏡の欠片あり 欠片の形に青空があり/千葉聡
意味としては、そのままだと思います。
バスを待っていたのでしょうか。バス停に鏡のかけらが落ちていて、そのかけらに青空が写っている。
空は実際にはもっと大きなものなのに、写すかけらのほうが小さいから、そのかけらの形にしか青空は写されない。
かけらに写されたものだけで判断していてはいけない、そんな戒めがこの歌にはあるのかもしれません。
打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に/正岡子規
野球ですね。フライを取るシーンでしょう。
打者がカキーンと打って、高い!行ったか、と思いきやフライだった
「おおおー!」
「あぁ〜」
みたいな情景が目に浮かびます。
「空」という文字は出てこないのですが、空がイメージされる大好きな一首なので入れさせてもらいました。
空が出てくる素敵な短歌を詠んだ歌人たちの他の歌
おまけです。
上記で紹介した空が出てくる短歌を詠んだ歌人が詠んだ他の短歌を紹介します。
この人の短歌好きかも、と思われたらぜひいろいろと他の短歌も見てみてください。
若山牧水
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
光森裕樹
ドアの鍵強くさしこむこの深さならば死に至るふかさか
石川啄木
眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた 眼をあけるかな
奥村晃作
次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く
浜田康敬
マスクの先軽くつまんで風邪気味の味疎き口にガムねじり込む
千葉聡
トレーニングルームに野球部五人いて今日限定で懸垂が流行る
正岡子規
九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす